意識をイメージすることなどできるのだろうか?
シンギュラリティはやってくるだろう の続き。
意識をイメージする前提だけど、そもそも意識ってイメージできるのか?
意識・心・クオリア・私、これらは脳にある。
というのが一般的な解釈である。
ここではまとめて意識とする。
脳という物質の中に、意識が入っている。
脳が失われる、または機能しなくなる(死ぬ)と、意識もなくなる。
これも一般的な解釈である。
脳とは、人間の器官の一つであり、見たり触ったりできる立派な物質である。
脳が物質なら、そこに入っている意識も物資のはずである。
これは正しいだろうか?
物質である脳が無くなれば、意識もなくなる。
であるならば、意識も物質のはずである。
これは正しいだろうか?
人間の感情的な論理を疑い、人工知能の研究者たちはこれを証明しようとしている。
物質であるならば、作れるはずだ。
アーノルド・シュワルツェネッガーがターミネーターで言っていた、「血が流れるのなら殺せるはすだ」と同じだ。
もしも完全な人工知能が完成して、一緒に笑って泣いて、恋して愛し始めたら、
クオリア(意識)などない。人間は全員、哲学的ゾンビだった。ということにならないだろうか?
自分に意識なんてものはなく、ただ環境に反応しているだけだった。
自分は哲学的ゾンビだったとしたら、意識をイメージすることなどできるのだろうか?
逆に哲学的ゾンビだったとしたら、欲や怒り、悲しみなんてものはいい加減な妄想だったという、般若心経みたいなことになるんだろうか?
果たして科学と宗教は、どこかで折り合うのだろうか?
それともどこまで行っても化学は科学で、宗教は宗教で折り合うことなく、真実は一つだったということにはならないのだろうか?
意識をアップロードなどできるのか?
を考えていたらここまで来た、中二病をこじらせてる41のおっさんでした。
いやあ未来、楽しみですね。
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2016/01/11 | 直情径行
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