おわら風の盆:おわらの起源と胡弓そして松本勘玄とは
胡弓の使用
おわらは『地方(じかた)』と呼ばれる演じ手によって奏でられる。地方は、唄い手・囃し手・三味線・胡弓・太鼓(町によっては使用しない)で組む。
今では風の盆と言われれば胡弓の音色が頭をよぎるほど無くてはならないものであるが、おわらが出来た当初は胡弓は使用されていなかった。
…では、いつ、どのような経緯で使用されるようになったのだろうか?
江戸時代、八尾は養蚕が盛んで、富山藩の中でも大変裕福な町であった。明治に入ってもそれが続き、町のダンナ衆は自宅で糸を紡ぐ女性の働きをよそに、浄瑠璃・太鼓・三味線などの芸事に明け暮れていた。
芸事が盛んだった八尾では、浄瑠璃や義太夫の発表会が開かれ、多くの旅芸人が集まってくるようになった。
旅芸人一座とともに全国を行脚していた松本勘玄という男も、八尾が大変気に入り、結婚してここに腰を落ち着けた。
そんなある時、町中を胡弓を奏でながら流している佐藤千代という旅人が現れた。彼女の奏でる音色にホレた勘玄は、胡弓を習得し(千代に習ったかどうかは不明)、持ち前の遊び人センスから「おわら」に合わせることを思いついた。
公的な資料によると、明治30年代初めにそれは発表され、今に至るまで廃れることなくその遊び人魂は生き続けているのだ。
胡弓とは
一般にはなじみの薄いこの楽器。見た目は三味線に似ている。中国の二胡という楽器が元になったと言われている。
この楽器と入れ替えくらいに、尺八での演奏がされなくなったということだ。
昔は奏者が楽器も自分で作ったそうだが、今では工法の難しさからか県内でもほんの一握りの人しか作ることが出来ない。それどころか、奏者も少ないといい、後継者不足に悩まされている。
学校の授業などで、子供たちは踊りを習得するそうだ。そして、たいてい25〜26歳くらいで楽器に転向していくものらしい。
おわら節 起源
おわらは他の民謡と同様に、始めは歌だけであった。蚕の糸を紡ぐかたわら、女たちが口ずさんでいたものが原型だと言われている。
それらのものは、生活の中から見いだした喜びを面白おかしく表現したもので、その表現の多くは、当時の庶民生活の実態をそのまま露骨に唄ったものだった。
『おわら』の語源には何種類かの説がある。私が掴んでいるのは以下の3つだ。
1.後に、芸達者な人々が歌詞を改め、新しい詞の間に「おおわらい(大笑い)」という言葉を使った。これが転じて「おわら」になった
2.豊年豊作を祈り、大きな藁(わら)が取れることを願って「大ワラ」が「おわら」に転じた
3.歌の中に「おわらび」という語が使われていて、それが転じて「おわら」になった
今となっては真相は闇の中だ。けれど、おわらの精神は名を変えて全国で愛され、歌い継がれている。
例えば佐渡の「おけさ」や、津軽の「あいや」、鹿児島の「はんや」。…これらは「おわら」がさらに転じたものといわれている。
松本勘玄
このヒトが天下の遊び人、松本勘玄 その人である。
彼は石川県の輪島に生まれ、家業の漆塗りの仕事をしていたのだが、16歳の時に大阪へ出てきた。…で、浄瑠璃の修行をしながら長唄・小唄・三味線などのあらゆる芸事を覚え、旅芸人一座と全国を旅して回った。
ハタチの時に結婚し、八尾に居をかまえることになったという。
ナゾだ〜。文献によると、彼は八尾でも漆塗りをやっていたらしいが、仕事してる姿を見たことがないそう。…やっぱり、オクサマが稼いでいたのかねぇ。
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2002/09/01 | かづよ備忘録
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